航空機失踪のミステリアスな歴史
マレーシア航空MH370便はどこへ消えたのか。謎は深まるばかりだが、航空機事故に関する情報サイト「航空安全ネットワーク」によれば1948年以降、(14人以上が搭乗可能な航空機に限っても)80機以上が「行方不明」になっているという。そのうち4つのミステリアスなケースを見てみよう。
1950年:ノースウエスト・オリエント航空2501便
ミシガン湖に沈んでいると思われるものの、機体は発見されていない。ダイバーたちによって座席などの残骸や遺体の一部は発見されたが、機体そのものは見つからず、当時ではアメリカ史上最悪の航空機事故となった。
ニューヨークからミネソタ州ミネアポリスを経由し、ワシントン州シアトルに向かっていたダグラス社製DC-4機に搭乗していた乗客55名と乗員3名は墜落によって死亡したと思われる。現地のある歴史家は2008年、1950年代に事故の犠牲者と思われる遺体が多く岸に流れ着いたが、家族らに知らされることなく無標の墓にまとめて埋葬されたと証言している。
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1962年:フライング・タイガー・ライン739便
3月16日、グアムからフィリピンのマニラにあるクラーク空軍基地に向けて飛び立った当機に乗り込んでいた米兵93名、南ベトナム兵3名の消息は今も不明のままだ。失踪したロッキード社製L-1049機の捜索は、太平洋上では史上最大級の規模で行われたが、結局機体は発見されず。CAB(米民間航空委員会)は空中で爆発したことが原因だと結論付けた。
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1965年:アルゼンチン空軍C-54機
コスタリカのジャングルの奥地か、カリブ海の底か。11月1日に68名を乗せたまま姿を消したアルゼンチン空軍所有のダグラス社製C-54機の行方は今も分かっていない。
乗員からは救難信号が発せられ、コスタリカの都市リモンを迂回するとの知らせがあったが、それを最後に交信は途絶えた。その後、ボカス・デル・トーロ列島で25個の救命ブイや乗員の所持品、機体の破片が発見されたが、機体の本体や乗員らが見つかることはなかった。
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1979年:バリグ・ブラジル航空967便
日本とブラジルを結ぶ貨物機は1月30日、成田空港を離陸してからわずか30分後に消息を絶った。貨物便のため乗員は6名だったが、120万ドル相当ともされる絵画などを積み込んでいた。現在に至るまで機体、乗員、積み荷などは何一つ見つかっていない。
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■その他、未だに解明していない世界の集団失踪事件
■メアリー・セレスト号事件
メアリー・セレスト号は、1872年にポルトガル沖で、無人のまま漂流していたのを発見された船である。
発見当時、なぜ乗員が一人も乗っていなかったかは今もって分かっておらず、航海史上最大の謎とされる場合もある。
船長室のテーブルに置かれた朝食は食べかけのままで、コーヒーはまだ暖かく、湯気を立てていた。
そしてかたわらに置いてある、赤ん坊のミルクビンは、少し飲みかけのままであった。また、船の倉庫にはたくさんの食料や飲み水もあり、8万ドル相当のアルコールの樽も置いてあったが何も盗まれた気配がない。
救命ボートも全部そのままで綱をほどいた形跡もなかった。また、調理室では、火にかけた鍋がグツグツと煮立っており、水夫の部屋では食べかけの鳥の丸焼きと、シチューがそのまま残っていた。
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■ロアノーク植民地集団失踪事件
ロアノーク植民地はウォルター・ローリーにより出資、組織化された殖民事業である。
1585年から1587年にかけて数度の植民地建設が試みられたが、どれも放棄されるか開拓者が死亡するかした。
最後の100名余の開拓者集団は、おりからの英西戦争のためにイングランドからの補給がないまま3年が経過した後に全員姿を消していることが確認された。
開拓者たちの行方は分かっておらず、以後ロアノークは「失われた植民地」と呼ばれ語り継がれることになり、研究・考察が進められている。
少ない手がかりといえば、砦の柱に彫られた「クロアトアン(CROATOAN)」という言葉と、近くの木に彫り付けられた「クロ(CRO)」という言葉だった。
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■アイリーン・モア灯台事件
1899年12月、フラナン諸島最大の島・アイリーン・モア島に灯台が建造された。
アイリーン・モア島には侵入者を歓迎しない妖精がいるという伝説が古くから語り継がれてきたが、この付近の海は難所として知られており、付近を航行する船の安全を確保するのが目的だった。
その灯台には3人の男、ジェームズ・デュカット、ドナルド・マッカーサー、トマス・マーシャルが灯台守として常駐していた。
しかし、1900年12月15日、ヘブリディーズ諸島の沖を航行していた貨物船アーチャー号が船の向きを変えようとして現在位置を確かめるべく、アイリーン・モア灯台の光を探したが、奇妙な事に光はどこにも見当たらず、応答もなかった。
それから10日余り経った12月26日、定期的に食料等を補給していたヘスペラス号が島に到着、船長のジム・ハーヴィーは汽笛と大砲の音で灯台に呼びかけてみたが、何の応答もなかった。船員達が調査のためボートに乗って灯台に向かったところ、灯台の中はきちんと整っており、灯台のランプにも何の異常もなく、いつもの灯台の光景である。しかし、そこからは3人の灯台守の姿だけがなくなっていたのである。
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■ノーフォーク連隊集団失踪事件
1915年。イギリス軍のノーフォーク大隊は、エーゲ海に突き出ているガリポリ半島に上陸した。兵士たちは、六十号丘陵と呼ばれる小高い丘の陥落を目指していた。
その日は、快晴であった。しかし丘の中腹に六~八個ほどの、パンの塊のような形をした雲が掛っていた。それはピンク色をした異様な雲であったと言われている。しかもその雲は、強い南風が吹いているにも拘わらず、形も変えずに、長い間そこに留まっていたという。
大隊の兵士たちは、遂に、突撃を開始した。前進して、次々と雲の中へ入って行った。その雲は兵士たちを、どんどん飲み込んでいった。ところが雲の中に入った兵士たちは、誰も出て来なかった。
その場所に一時間ほど留まっていた雲は、その後、丘の上を滑るように北に移動して、やがて消えていった。
その様子を後方で目撃していた別の隊が、その丘まで行ってみたが、雲の中に入った兵士たちの影はどこにも無かった。こうして総勢、266名の兵士が、行方不明になったのである。
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■イヌイット村人集団失踪事件
1930年12月、北カナダのモウンティ町から北の方へ600㎞ほど行ったところにある小さなエスキモーの村を、一人の猟師と騎馬警官隊が訪れた。
だが、不思議なことに、この村には大人と子供を合わせて30人くらいのエスキモーが住んでいたはずなのに、人っ子一人おらず、村は完全に静まり返っていた。
そして村の小屋や、テントの中には、火にかけて、食べかけの鍋の中身がそのまま残っていて、すでに凍りついていた。また、エスキモーの人々が、寒さをしのぐアザラシの毛皮の上着もそれぞれの小屋に全部残されていた。
また、エスキモーにとっては命綱とも言えるライフル銃も全て残されてあり、数十頭の犬は木につながれたまま餓死していた。また、ソリや船もそのまま残されてあり、これら、生活にとって大変貴重な物を全て残したまま、30人全員がどこへ消えたのか今だに判明していない。
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■フィラデルフィア計画
1943年10月28日、ペンシルベニア州フィラデルフィアの海上に浮かぶ「エルドリッジ」を使って、遂に大規模な実験が秘密裏に行われた。
当時は第二次世界大戦の真っ只中であり、実験は新しい秘密兵器「磁場発生装置テスラコイル」を使い、「レーダーに対して不可視化する」というものであった。 エルドリッジの船内には多くの電気実験機器が搭載されており、そのスイッチを入れると強力な磁場が発生 駆逐艦がレーダーからはもとより、肉眼でも認められなくなった。実験は成功したかのように見えたが、不可思議な現象が起こる。実験の開始と共に海面から緑色の光がわきだし、次第にエルドリッジを覆っていったのである。次の瞬間、艦は浮き上がり発光体は幾重にも艦を包み、見る見る姿はぼやけて完全に目の前から消えてしまった。
「実験開始直後に、駆逐艦はレーダーから姿を消す」、ここまでは実験参加者達の予定通りであった。しかし直後にエルドリッジは「レーダーから」どころか完全に姿を消してしまい、おまけに2,500km以上も離れたノーフォークにまで瞬間移動してしまっていたのである。それから数分後、またもや発光体に包まれ艦はもとの場所に瞬間移動した。
再び戻ってきたエルドリッジだが、驚くべきことに乗員は、次のような惨状に陥っていた。
体が突然燃え上がった
衣服だけが船体に焼き付けられた
甲板に体が溶け込んだ
発火した計器から火が移り、火だるまになった
突然凍り付いた(冷凍化)
半身だけ透明になった
壁の中に吸い込まれた
また、生き残った乗組員も精神に異常をきたし、エルドリッジの内部は、まさに地獄絵図の如くであった。唯一、影響を受けなかったのは、鉄の隔壁に守られた機械室にいた、一部のエンジニアたちだけだった。
こうして実験自体は成功したが、「行方不明・死亡16人、発狂者6人」という、取り返しのつかない結果になった。このことに恐れおののいた海軍上層部は、この極秘実験を隠蔽したといわれている。
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■ハーメルンの笛吹き男
1284年、ハーメルンに「鼠捕り」を名乗る色とりどりの布で作った
衣装をまとった男がやって来て、報酬と引き換えに
街を荒らしまわるネズミの駆除を持ち掛けた。
ハーメルンの人々は男に退治の報酬を約束した。
すると男は笛を取り、笛の音でネズミの群れを惹き付けると、
ヴェーザー川におびき寄せ、ネズミを残さず溺死させた。
ネズミ退治が成功したにもかかわらず、ハーメルンの人々は約束を破り、
笛吹き男への報酬を出し渋った。
怒った笛吹き男はハーメルンの街を後にしたが、
6月26日の朝(一説によれば昼間)に再び戻って来た。住民が教会にいる間に、
笛吹き男は再び笛を吹き鳴らし、ハーメルンの子供達を街から連れ去った。
130人の少年少女が笛吹き男の後に続き、洞窟の中に誘い入れられた。
そして、洞窟は内側から封印され、
笛吹き男も洞窟に入った子供達も二度と戻って来なかった。
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日本人を震撼させた 未解決事件71
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ペンタゴン特定機密ファイル [謎の遺物・古代の核戦争・失われた文明] アメリカ情報機関の極秘調査